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1,000?先の都内観光? 灼熱と悲劇の硫黄島
2016/06/28 おでかけ
うみのすけです
まだ6月なのに気温が30℃を越える日が続出で・・・ 熱中症には注意しましょう。
室内でもなるみたいなのでこまめな水分補給を!
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南硫黄島を離れた船は火山列島の中心の島、硫黄島(いおうとう)に向かいます。
硫黄島の話は前回のブログでも少しお話ししましたが、太平洋戦争の大激戦地で日米両軍で約28,000人の戦死者がでています。
日本軍約21,000人の戦死者のうち遺骨が回収されたのはまだ10,152柱(平成25年現在)でまだ10,000柱以上の遺骨が未帰還となっています。
硫黄島は明治22年頃から入植が開始され、昭和19年の強制疎開まで約1,000人の島民がサトウキビ、レモングラス栽培、漁業、硫黄採掘などで暮らしていたそうです。
政府は1968年米軍から返還されたときに「硫黄島は不発弾処理、遺骨収集の状況との問題において復興の方法を検討」しましたが、1984年小笠原諸島復興審議会が「硫黄島は火山活動よる異常現象が激しい上に、産業の成立条件も厳しく、一般住民の定住は困難」としたため、今でも残念ながら旧島民の帰島は許されていません。
硫黄島の地形は海底火山の島で今でもマグマによる隆起が続いていて、4年に1mという世界的にも珍しい驚異的ペースで隆起し続けています。 米軍が上陸した1945年から17mも隆起しているそうです。現在も至るところで水蒸気が噴出する危険な島でもあります。
標高169mの摺鉢山(別名パイプ山)から細長く平らな台地が広がる島です。 島の真ん中には自衛隊の滑走路と主要施設があります。
船は時計回りに1周半します。
摺鉢山は島の南西部にあり島全体が見渡せるため日本軍の拠点となっていました。
米軍は艦船800隻、航空機2,500機を投入し上陸前3日間昼夜を問わずの艦砲射撃と爆撃機の爆撃を行います。山の頂上4分の1ほどが吹き飛び地形が変わってしまいました。
この山の頂上に米軍が星条旗をあげた写真が有名な「硫黄島の星条旗」という写真で1945年ピューリッツア賞を受賞した写真です。
島の西側です
米軍が戦後コンクリート船を沈めて桟橋を作ろうとしたが失敗した後の残骸と自衛隊の給油施設、さらに水蒸気が噴き出す鶯地獄と呼ばれるところです
硫黄島はどこもちょっと地面を掘ればサウナのような熱気だそうです。
日本軍は強靭な地下陣地(トーチカ)を築きそこから反撃したそうです。
地下は30℃?50℃の地熱、さらに噴き出す硫黄ガス。。本当に地獄のようだったのでしょう。
硫黄の匂いも船まで風に乗って匂ってきます。
ちなみに硫黄島には水源がありません。当然川もなく温泉も湧きません。
昔は雨水を頼りに暮らしていたそうです。
現在は海水淡水化装置が備えられていますが水が貴重なのはいうまでもありません。
自衛隊の管制塔と施設です。
大体週1回のペースで本土から航空自衛隊の輸送機が来るようです。入間基地から3時間ぐらいだそうです。 自衛隊の滑走路は2,650mあり大型旅客機も着陸可能です。
小笠原唯一の空港として民間利用も検討されていますがなかなか難しいようです。
?この島もバードウォッチャーには興味深い海鳥がいるそうで「クロアジサシ」という鳥の繁殖地になっているそうです。
砂浜が広がる南海岸です。
昭和20年2月19日にこの南海岸に数万人の米兵が上陸しました。高い波のうねりで上陸用の船は何隻も沈没、転覆し、さらに上陸させた車などは火山灰に近い砂浜に埋まり身動きがとれなくなったようです。
そして上陸後1時間ほどして米軍が少し内陸に進んだところで日本軍の猛反撃がはじまり、この海岸全体は負傷者、死体、船や戦車の残骸の山ができたそうです。。
米軍は5日で占領できると思っていたようですが日本軍はゲリラ戦で激しく対抗し、結局戦いは1か月に及ぶ壮絶な戦闘となりました。
この島でお亡くなりになった多くの戦没者のために献花・黙とうをします
船は長い弔笛を鳴らし硫黄島を離れました
船は火山列島の一番北に位置する硫黄3島の最後の北硫黄島に向かいます
北硫黄島は明治32年入植が開始され大正6年には人口220人もが居住していましたが、昭和19年には強制疎開で90人全島民が本土に引き揚げ、昭和20年以降は無人島になってます。
周囲約8?、面積5.57?、最高峰の南側の山、榊ヶ峰は標高792m、南硫黄島と同じく急峻な地形です。
東側の石野村の跡地あたりです 平成3年の調査でマリアナ系先住民の遺跡が発見されたそうです。
かつては村の付近には渋川という川が流れ、湧水もあったとか・・
さらには小学校や診療所もあったそうです。
北側です
北側と南側の山をつなぐ標高700mの尾根付近には三万坪と呼ばれる平坦な土地あるそうで牛の放牧がおこなわれていたという話があります
西側の集落があった西村付近
西村の小学生は海岸沿いに石野村の学校に通っていたそうですが海が荒れたときなどは尾根を越えていったとか。。
標高500mから600m越えの登校。。過酷です。
南側には斜面が崩れたような場所があり長根鼻とよばれているようです
北硫黄島を反時計回りに2周した後、船は一路父島へ戻ります。
この「硫黄3島ツアー」は来年もあるのかどうかは未定です。というのも現在の「おがさわら丸」は今回で退役し、新しい「おがさわら丸」になります。
新しい船は現在の船より大型になるためどのぐらい島の近くに寄れるか未定。ツアー開催したとしても新しい船ではこんなに近くには寄れなくなる可能性は高いです。
いずれにしても貴重な大自然を学び、悲惨な戦争の歴史をしっかりと心に刻み込むツアーとなりました。